フジファブリック「茜色の夕日」と、一個しかない、生きるということ。

フジファブリックと初めて出会ったのは、小学生の時で、父が車の中でかけていた、「赤黄色の金木犀」や「若者のすべて」、そして「茜色の夕日」のミュージックビデオを見た時だった。その当時で、志村が死んで3,4年が経っていたが、はじめはそんなことを知らず、伸びきった髪、少し伸びたようなダサい長袖、脱力した表情で歌う志村を見て、何となく、近所の引きこもりのお兄ちゃんのような感じがしていた。歌詞も、現在進行形のことを歌っているというよりは、引きこもりのお兄ちゃんが近所を散歩しながら、学生の頃の恋愛の思い出を不意に思い出してしまった、その、過ぎ去りしものへの抒情みたいなものかなと、子供ながらに感じていた。しばらくして、ボーカルのお兄ちゃんがもういないということを父から聞いた。かなりの衝撃だった。そのころにはもう志村にかなり親近感を持っていたし、彼が思い出話を語ってくれるのが、とても好きだった。だからこそ、彼が、彼のその瞳の奥にある、純度と鮮度の高い思い出の世界と、それを見つめるきれいな心も引き連れて、途端に消えてしまったということ、ひとつしかない彼の世界がもうないということにとても衝撃を受けた。 

思えば、あれが「ひとの死と出会う」ということの原体験だったのかもしれない。

最近になって、たまたまyoutubeフジファブリックを見つけ、はじめに聞いたのが「茜色の夕日」だった。

 

茜色の夕日眺めてたら
少し思い出すものがありました
晴れた心の日曜日の朝
誰もいない道 歩いたこと
 
茜色の夕日を眺めていたら、ふと意識が、ある日の朝につながる。空や天気には、時空をつなげる効果がある。洗濯物越しに、灰色の空を見て、ザーッとなる雨音を聞いていると、図書館の窓から、学校の窓から、小学校の下駄箱の横に座りながら、雨を見ていたすべての時間とつながる感覚がある。この雨の向こう側の建物の中に、あの頃の気持ちのあの頃の自分がいて、雨を聴いている、というような感じ。
彼の意識がつながったのは、日曜日の朝、誰もいない道で、自分だけが新しい世界に出会ったような感覚。長いうつが明けた後の発散。躁(ロックンロール)。でも、やっぱり自分というものはそんな大きくは変わらなかったようで、また夕日を眺めている。
 
茜色の夕日眺めてたら
少し思い出すものがありました
君が只 横で笑っていたことや
どうしようもない悲しいこと
 
 
ここで「君」という存在が登場する。「どうしようもない悲しいこと」のせいだろうか、おそらく今は会う機会のない人。もしかしたら、さっきの「日曜日の朝」は、「君」と出会った翌朝なのかもしれない。
 
 
君のその小さな目から
大粒の涙が溢れてきたんだ
忘れることはできないな
そんなことを思っていたんだ
 
 
言葉が美しく、強い。「小さな目」と「大粒の涙」の対比は一歩間違えると、単なる卑近な比喩になりかねず、中途半端な表現者なら避けてしまう表現のようにも思われるが、そんなことなどどうでもいいと蹴り飛ばし、目の前にある美しさの原形質を詠みきる強さがある。「その小さな目」の「その」は、まるで目の前に「君」がいるような言葉遣いであり、夕日を見つめる彼がその瞬間、現実ではなく、過去を生きているということが読み取れる。もう一つここで気付いたことがある。「思っていたんだ」と     いう言葉の時制から、作中主体(語り手)は夕日を眺めていた時点よりも後の時点にいて、夕日を眺めていた自分を思い出していると読み取れるということだ。つまり、この歌詞には三つの時間が存在している。君と過ごしていたあの時間、夕日を眺めながら思い出をたどるその時間、そして、そんな夕日を眺めていたころを思い出している、今この時間。今この時間にいる作中主体は、もう、しっかりと前を向き、現実を生きているのだろうか。先が見えず、ただ、同じフィルムを回し続けるような、単調な毎日。未来にも今にもアクセスできず、ふと眺めた夕日によって、かろうじて過去にだけはつながれるような毎日。そこから抜け出せたのだろうか。もう、ちゃんと、心から笑えるのだろうか。
 
 
茜色の夕日眺めてたら
少し思い出すものがありました
短い夏が終わったのに
今 子供のころの寂しさがない
 
 
「短い夏が終わったのに今子供のころの寂しさがない」。「赤黄色の金木犀」の「期待はずれなほど感傷的にはなりきれず」にも言えることだが、この部分に、フジファブリックの持つ「リアル」、2000年代の若者の「リアル」がある感じがする。いっそあの頃のように、思いきり悲しくなったり、寂しくなったり、ネガティブになれたりしたらいいのに。それすらもできない自分に対する辛さ。諦め。生の実感のなさ。こういった部分の表現は、個人的に、オアシスが、ニルヴァーナの絶対的なネガティブに対して打ち出した、「Live Forever(まあいっか、しゃーないし、それでも生きていきますか。)」といった、「諦めの中にあるポジティブ」、「ポジティブの中にある諦め」に対する問い直しでもある気がする。本当に、時間が過ぎていくことに対して焦燥感を持たなくていいのか。確かにオアシスのポジティブさは夏の短さに押しつぶされそうだった人々を救ったのかもしれないが、オアシスの登場から10年がたち、すっかり世界に浸透したそのポジティブさは、「生の一回性」を奪っているのではないだろうか。
 
 
君に伝えた情熱は
呆れるほど情けないもので
笑うのを堪えているよ
後で少し虚しくなった
 
 
僕がこの曲を何度も聴いてしまう要因はこの部分にあると思う。曲が一番盛り上がる部分で体から湧き上がり、吐き出される自虐。その情熱の内容はわからない。自身の夢なのか、それとも「君」への愛なのか。なんにせよ、今はそれを、呆れるほど情けないものだと笑わなければ心の整理がつかない。しかし、そうやって「情熱」「生きていた時間」を笑い飛ばし、自己防衛をしていても、本当は、それに憧れている自分自身にも気づいていて、虚しくなる。
 
 
東京の空の星は
見えないと聞かされていたけど
見えないこともないんだな
そんなことを思っていたんだ
 
 
甲本ヒロトが作詞したブルーハーツの「星をください」には、都会という大きな壁に対峙し、孤独というかけがえのない一つの感情を感じ切って生きる若者の姿が描かれている。
 
星が見えますか 星が見えますか ああ 星が そこから星が見えますか
いくら見上げても僕には見えません ああ 星が 今日の僕には見えません
願いをかける星さえ見えず そんな気持ちなんです
 
でも、もうそんな風に主観的に、「東京」、「都会」をテンプレ化し、立ち向かうことはできない。東京には実は田舎者もいっぱいいたし、優しい人もいっぱいいて、何となく楽しくやっていける。夜空を見上げれば、星もいくらかは見える。ここでも、この生暖かく、優しい顔をしたリアリズムに体温を奪われる。
 
 
僕じゃきっとできないな できないな
本音を言うこともできないな できないな
無責任でいいな ラララ
そんなことを思ってしまった
 
 
この部分も、すべてを相対化し、情熱や主張といった「本音」を持たない自分への失望を歌っているように感じた。

一個しかない、生きるということ。

僕たちは、それを手に入れることができるのだろうか。

安全で、楽しくて、多様性が尊重されるこの世界で、

僕たちはもう一度夢を見ることができるのだろうか。

熱狂できるのか。

葛藤できるのか。

悲しむことができるのか。

抱きしめることができるのか。

僕にとって「茜色の夕日」は、そんな焦燥感を感じさせてくれる曲だ。