菊次郎の夏

菊次郎の夏」を見た。たけし映画をしっかりと見たのはこれが初めてだ。しかし、僕はたけし映画に対するある漠然とした、ノスタルジーにも似た感情を持っていた。というのも、確か小学生の時分であったろう、そのころは年末年始になると、「ニューイヤーシネマ」だなんだと称し、夜中に種々の映画をやっていたのだが、その中の一つに「HANA-BI」があった。どういうことの成り行きかは分からないが、僕はそれを一人で、部屋を真っ暗にして見ていた。話の内容は全く覚えていない。しかし、子供のような純粋さと繊細さを削り出したように見える絵画たち、少し寂しげで、永遠を感じさせる海の風景に銃声が響く天国のようなシーン、そして映画全体を貫く独特の間、といった断片的な記憶が強烈に頭に残っていた。あんなに静かな映画は後にも先にも見たことがなかった。

 

 

今回、「首」の公開をきっかけとして、こうした僕にとっての「たけし映画の原体験」が呼び起されたこともあり、たけし映画を一通り見てみようという気持ちになった。その第1作目がこの「菊次郎の夏」だった。

 まず第一に、この映画は落語的だと思った。この映画の軸となるストーリーは、母親探しというシンプルで、言ってしまえば「ベタ」なロードムービーである。そして、この映画の主たる部分は、実は、そういった骨組みのストーリーである、母親探し、そして、母親がすでに新しい家庭を持っていたことに対する悲しみ、およびそこからの立ち直りといった部分ではなく、むしろ枝葉である、道中で出会うふざけた大人たちとの「遊び」の部分なのである。この点が、実に落語的なのである。落語も、シンプルで骨太なストーリー展開の中で、少しわきにそれる形で愛すべき外れ者たちの言動を子細に描く。そして、問題を抱えた人間が問題を抱えたまま生きていくことを肯定する。実際、この映画では、母親からの愛が受けられなかった、菊次郎と正男の悲しみに対する解決は一つも用意されていない。正男にとっての菊次郎やその他の愉快なおじさんたちはあくまで、夏休みの数日間を共に過ごしただけの存在であり、今後の彼を永続的に救うこともないだろうし、実際、母親の不在とその悲しみは正男の人生に最後まで付きまとうだろう。しかし、この映画は「遊び」のシーンを通じて、根本的な悲しみはなくならない中でも、人とかかわり、ある種の「暇つぶし」のように「遊ぶ」ことによって人生を「過ごす」という、ある種の人生観、人間観というものを提示している。

 

ここからは、先述の「遊び」の部分についてより詳細に考えていく。まずもって、あの「遊び」のシーンは、僕にとって、とても不思議で、暖かく、そして普遍的な体験に思われた。というのも、このシーンに登場する大人たちは、正男を喜ばすためなら、川に飛び込んだり、宇宙人のコスプレをしたりと、かなり大掛かりなことまでやってのける。そして、何より重要なのが、彼らはこれらの「遊び」をしぶしぶ手伝っているわけではなく、あくまで彼ら自身も子供のように楽しんでいるということだ。ここでは、自分自身の楽しさと、正男を喜ばせたい気持ちがごったまぜになっている。つまり、ここで描かれているのは、問題を抱えている正男を立派な大人たちが慰めるといったたぐいのものではなく、大人たちもそれぞれの問題を抱えていて、それを抱えたままあの場所にいて、遊びの中に慰みを見出して生きているということなのである。また、星空にたけしさんや軍団が映し出されるシーンで築いた人も多いと思うが、こういった一連の「遊び」は、たけしさんが実際に、テレビのバラエティ番組を通じて全国の子供たちとともにやってきたことと同じなのである。そういう意味で、この映画は、北野武が、 ビートたけしを俯瞰して描いている映画なのかもしれない。

 

立川談志は、落語は「業の克服」ではなく、「業の肯定」、つまり、人間のどうしようもなさを認めていくことだといった。そして、その立川談志が、次の世代として最も信頼を置いていたのがビートたけしである。この映画は、北野武なりの落語的世界観、「業の肯定」の物語なのかもしれない。